ノートをとること。

「ノートをとること」について扱う初年次教育の講義があった。この科目は学科教員によるリレー講義で、この日は担当ではなかったので講義を聞きながらノートをとりながら、まさに「ノートをとること」について考えていた。そこで改めて思い至ったことは、ノートを取るのは難しいということである。より正確に言うのであれば、何の気なしに行っているノートをとるという行為は実のところ複雑なプロセスによって成り立っているという事実に気がついた。

講義においてスライドに投影された言葉や図、話されたおそらく大切であろう言葉を、手元のノートに書き写していくわけだが、そこでは常に選択を突きつけられる。投影され板書される言葉を、発せられる言葉すべてを書き記しておくことはできない。もし必要なのであれば動画やICレコーダーで記録しておけば良い。ノートをとる私たちは、見たもの聞いたことをノートに記すかどうかを常に取捨選択しなければならないし、書き記すかどうか悩んでいる間にスライドは移り変わり、話題は展開していってしまう。ノートを取るということは、絶え間なく突きつけられる取捨選択の要請に答え続けていく作業なのである。

ノートの取り方、すなわち何をどのように記述していくかの選択は人それぞれであろう。溢れ落ちスライドしていく言葉の群れを可能な限り忠実に残していこうとする人もいるし、全てではなく要点のみを端的に書いていく人もいるだろう。あるいは、授業の内容ではなく授業の組み立て方や話し方といった形式に紙幅を割く人もいるだろうし、その時々の感情的な起伏を絵文字やイラストを用いて描き添えることもあるかもしれない。取捨選択は、過去へと流れ去っていく言葉をこぼれ落ちないようにノート上に書きとどめていく際に要請される目の前で展開されていく講義とそれと対峙する私たちの関心をすり合わせていくなかで行われるものである。

眼の前で展開していく言葉を自らの関心と照らし合わせながら選び取り、ノート上に書きとどめていく行為は、しかし、同時に未来からの視線を潜在的に内包している。消え去る言葉を留め記すことは、いずれそのノートを見返すであろう、将来の自分へと向けて言葉を投げ出していく作業でもある。過去へと流れ去る現在を未来へと媒介する作業としてノートを取ることを捉えるとき、執筆時の取捨選択はより難しい作業となる。というのも、ノートを書き記している自分の現在時における関心、すなわち取捨選択の基準と、そのノートを読む将来の自分の関心は必ずしも一致しないからである。

ノートをとること。それは目の前に投げ出される言葉と現在の自分、そこに未来の自分が加わり行われる対話の営みである。それは世界をいかに記述し未来へと託していくのかという問いと不可分なのである。