霊媒としての写真

Facebookに投稿された写真には、そこに写っている人物が誰であるのかをタグによって同定する機能が付いている。が、しかし、たまに何もない空間に「◯◯さん」といったタグが付けられていることがある。おそらく、それが意味するのは、画像内には写ってはいないが、しかし、撮影時に◯◯さんは一緒にいたということを示しているということだろう。それは、不在ではあるが存在しているという点においてどことなく心霊写真に似ている。

三浦雅士が『幻のもうひとり―現代芸術ノート (冬樹社ライブラリー)』(冬樹社、1991年)において指摘するように、写真の傍らには「幻のもうひとり」が取り憑いている。一方でそれは、そこにいたにもかかわらず決して画面には写らない撮影者であり、他方でそれは、被写体となった人物のオブジェクト・レベルとメタ・レベルへの分裂である――カメラを向けられた人は、撮影者に撮影される客体であり、その一方で、写真うつりを気にして撮影者の視点へと自らを切り離し、カメラの前に立つ自らを見ようとする。

そうした写真において不在であるが存在し、身体から分裂し遊離する「幻のもうひとり」が画像内へと織り込まれたのが心霊写真であるとも言える『心霊写真は語る (写真叢書)』(青弓社、2004年)所収の前川修「写真論としての心霊写真論——心霊写真の正しい憑かせ方 」が詳細に論じているように、心霊写真について論じることは写真について論じることに他ならない。メディウムという言葉が霊媒を意味するということもそうしたことを示唆している。

spiritphoto

さて、19世紀中頃から現れ始めた心霊写真の中でも、とくにそのことを強烈に意識させるのが、このような心霊写真である。心霊写真師として知られるウィリアム・マムラー(William Mumler)が撮影したとされるこの写真の中央には、一本足のテーブルが写っている。フレーミングによって足の先が断ち切られたそのテーブルの上にはドイリーが敷かれており、その上にはうやうやしく一枚の写真が鎮座ましましている。恐らくはカルト・ド・ヴィジットだろうか。詳細を見て取ることはできないものの、それが一人の男性の肖像写真であることがかろうじて見て取れる。そして、その写真の周囲には、五体の幽霊がぼんやりと、しかし、はっきりと写り込んでいる。幽霊たちの顔は経年ゆえか、それとも始めからなのか、完全にぼやけており性別や年齢は判然としないし、肖像写真に写る男性との関係もわからない。しかし、写真を中心に、それを取り巻くようなかたちであの世からこの世の写真の周りに顕れた彼/彼女らは、カメラの前におかれた肖像写真に呼び寄せられたかのようである。そう、この心霊写真では、まさに写真というメディウムがメディウム=霊媒として機能しているのである。

この写真では、バルトがいう「かつてあった」「それ」が「いま・ここに触れに来る」という事態が幾重にも入れ子状に折り重なっている。完了し、もはや失われた過去の時間がテーブル上の写真として、そして、それが呼び寄せたであろう、また別の位相にある過去の時間が幽霊として「いま・ここ」に現前し、さらに、その時間が一枚の写真として、いま私の眼の前にある。この写真において、存在と不在、過去と現在、彼岸と此岸の区分は重層化するとともに相互に浸透し合っており、そうした〈うつし(写/映/移/顕)〉の力学は、この写真を見る私たちをも巻き込んでいく。今日に残された心霊写真は数多くあれども、この写真の写真は最も不可思議な一枚であり、それゆえ、魅力的であり、そして、だからこそ、非常に怖い。