明かるいタイル

中村裕太がタイルを積極的に用い始めたのは2007年の作品展示からである。その作品は、タイルの表面に釉薬を施し色を与えることで肌理を際出たせ、それを展覧会場の床に幾何学的に敷き詰めたインスタレーションだった。そこには《NOW NO SWIMS ON MON》という幾分奇妙なタイトルが付されていた。それは図像的な点対照構造をもつ、いわゆる回文である。この展示を行う際に中村が回文に関心を向けていたことは興味深い。回文を読むことの快楽とは、その文が回文であると気づいた瞬間に文彙が消失し、文字への注意が表現形式へと切り詰められることにある。例えば、この小論のタイトルを見て「明かるいタイルかぁ」とつぶやいたとして、そのつぶやきが回文となっていることに気がついた瞬間、言葉の意味内容は背後に退き、字面/音の羅列といった形式こそが前景化してくる。その移行こそが回文の妙味なのである。

中村作品を観賞する者は、ギャラリー空間の儀礼に習い、模様や色調を全体的に「見る」。それと同時に「踏む」という経験を通じてタイルの物質的な存在感をいやがおうでも意識する。2009年の《豆腐と油揚げ》に見られる、白色タイルの表面にうっすらと焼き付けられた文字もまた、観者の注意がタイルの質感へと向かう契機となる。白色タイルに反射する光の具合により、観者は文章の全体像を一挙に把握することはできず、一文字づつを確認しながら身体を移動させ読んでいくしかない。こうした凝視と移動を通じて、一方で日常的に使用されているはずの白色タイルの質感や光沢が際立ち、他方で、文字が文章へと紡がれていき、その文章が、厠や浴室に貼られたタイルの持つ「ケバケバしい」質感に対する違和感が綴られた、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の一節が露わになる。近代化・文明化の過程においてタイルは、衛生観念を教化し身体化する「アーキテクチャ」としての役割を担ってきた。すなわち、汚れが目立ちかつ清掃が容易なタイルは、人々に衛生であることを強いる、ある種の装置だったのである。それ以前の木造建築がもつ独特な味わいをタイルは覆い隠していき、今日我々の日常生活においてタイルは、当たり前のものとしてトイレや浴槽に貼りついている。谷崎による当時のタイル批判は、新たに現れた新奇な素材に対する違和感の発露であった。その意味で中村のインスタレーションは、谷崎の違和感を追体験させるための「アーキテクチャ」であると言えるだろう。そこでは、光の具合に応じて様々な表情を見せる魅惑的なタイルの質感こそが、触知的なものとして立ち現われてくる。それはもはや、我々が慣れ親しんだ衛生的で清潔感のある大人しいタイルではない。過剰に存在感を主張し我々の身体に積極的に働きかけてくる、粘着的とさえ言えるようなタイルなのである。

(初出「中村裕太展 めがねや主人のペンキ塗り」リーフレット掲載テクスト)